山田長政小傳
 山田仁左衛門長政は、天正十八年(1590)頃駿府馬場町の紺屋津国屋に生まれた。父は津国屋の二代目九左衛門、母は藁科村の寺尾惣太夫の娘だった。母親の名は伝わっていない。

《仁左衛門長政は本府の産、父は九左衛門、母は藁科の産なり。報身寺の南に在り、近世津国屋半七某末なりと云、初代九平次、慶長十四年五月九日死、二代九左衛門、寛永二十年六月九日死、二代目妻藁科寺尾惣太夫娘。》『駿河志料』

 少年時代の長政はよく学問を好む反面、はなはだ乱暴な子供で、周囲からは疎んじられたといくつかの伝記に書かれているが、長政の日本国内での事跡を裏付ける確実な史料は残されていない。江戸期に書かれたいずれの文書も巷説・伝聞の域を出ない。 信頼性のおける史料は、金地院崇伝(こんちいんすうでん)が幕府の公文書を写した『異国日記』がほとんど唯一のものである。同文書には長政は、慶長十二年(1607)頃には沼津藩主大久保治右衛門忠佐(ただすけ)の六尺(=駕籠かき)をしていたと記されている。

《大久保治右衛門六尺山田仁左衛門暹羅へ渡り有付、今ハ暹羅の仕置を致由也。上様への書にも見えたり。此者の事歟。大炊殿・上州へ文を越。》『異国日記』
※大炊殿は土井大炊頭利勝(どいおおいのかみとしかつ)、上州は本多上野介正純(ほんだこうずけのすけまさずみ)。

 駕籠かきとはいえ六尺は大名に仕える専属の籠担ぎである。体力も体格も一般人を凌ぐものでなければならず、このことから長政が堂々たる体躯の人物であったことが推せられる(六尺=約180センチという名は、担ぎ手の身の丈に由来する)。
 また最も低いものではあるが身分は武士の末端であり、後にシャム(=暹羅、現タイ)で日本人義勇軍を指揮する軍事・戦略の知識は、この時期に得たものと考えられる。

 慶長十七年(1612)頃、長政は駿府の滝佐右衛門・太田治右衛門が船主の貿易船に便乗し、台湾を経由してシャムに渡った。長政が渡海した理由や目的は定かではないが、当時の駿府の環境を見渡せば、その心情はおおよそ察せられる。
 慶長十二年(1607)に徳川家康が大御所として駿府城に在城するようになると、駿府は経済的に一挙に活気づいた。家康は慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに勝利した後、朱印船制度を定めて海外との交易を奨励していた(一説には、家康は来るべき豊臣方との戦いにそなえ、東南アジアで産出される良質の火薬を求めていたと言われている)。外交政策の中枢が駿府におかれ、朱印状は駿府城から発行された。国際都市の様相を呈す城下には海外雄飛の気運が高まり、駿府の豪商たちも朱印船貿易に関わってゆく。滝佐右衛門、太田治右衛門もそうした商人だった。
 更に家康と共に移住した家臣団は、駿府の文化水準を格段に上げていた。浅間通り周辺には家康を支える優秀な人材が居住した。
 西草深(現在のNHK静岡放送局裏)には林羅山(はやしらざん)の屋敷があり、その界隈は羅山の号「夕顔巷」をとって、夕顔小路と呼ばれた。羅山は徳川家康より四代にわたり将軍の侍講を勤めた儒学者である。家康が駿府城内に設立した図書館「駿河文庫」を管理し、『大蔵一覧』『群書治要』など多くの典籍の刊行を指揮した。これらの書籍の印刷には銅活字を用いた駿河版が使われ、作業には臨濟寺や清見寺の僧が動員された。羅山が晩年に江戸で家塾として開いた昌平黌は、後に官営の学校(=昌平坂学問所)に発展し、武士の学問の礎を築いた。
 宮ヶ崎には前述の金地院崇伝が住んでいた。黒衣の宰相と呼ばれた崇伝は、家康が最も重用した側近であった。宗教顧問であると同時に外交事務を担当して外交文書を起草した。
 彼らは家康の二大ブレーンとして徳川家を支え、二人が起草した「武家諸法度」によって幕府の体制は揺るぎないものとなった。豊臣から徳川へと、時代が大きく回転するその中心が駿府にあった。少年から青年時代にかけての長政は、そうした空気を肌に感じていたのである。

 長政のシャムでの消息は江戸時代には伝聞による立身出世譚ばかりが流布し、「伝説」が一人歩きしていた。しかし昭和の初期、ハーグの公文書館から、長政と同時期にアユタヤに駐在していたオランダ東インド会社の商館長エレミヤス・ファン・フリートの報告(『シャム革命史話』)が発見されたことによって、ようやく長政の事跡が詳細なものになった。
 長政が渡海した頃のシャムは、アユタヤに国都を置くアユタヤ王朝の時代だった。アユタヤは東南アジア交易網の重要な拠点として物産を集積・供給するだけではなく、国際的な東西海路貿易の中継地だった。
 当時の航海は季節風を利用したため、各国の商船は風向きが変わるまで、停泊した交易地に長期間滞在した。十七世紀のはじめまでには、アユタヤの南東に各国の外国人たちが集まる外国人町が作られ、日本人もまた自分たちの町を形成していた。
 日本の朱印船貿易が盛んになる一方で、豊臣残党の浪人や、すでに弾圧が始まりつつあったキリシタンたちも、密かに国外へと脱出していた。こうした日本へ戻れない事情を持つ人々と貿易に関係する商人・船員たちが合流し、アユタヤ郊外の日本人町は最盛期には、千五百人とも三千人とも八千人ともいわれる邦人が在住していた。

 ここで長政は、まず軍事指導者として頭角をあらわす。アユタヤでは多数の日本人がソングタム国王の護衛兵を勤めていた。長政は王の傭兵として日本人義勇軍を指揮し、シャム国の内戦や隣国との紛争の鎮圧に活躍した(象にのった兵や日の丸を立てた歩兵が進軍する『十七世紀における日本山田長政義勇軍行列の図』が静岡浅間神社に奉納されている)。
 特にスペイン艦隊の二度に渡るアユタヤ侵攻をいずれも斥けた功績は大いにソングタム王の信任をうけ、長政は王の近衛兵的な地位について重用された。
 ちなみにこのスペイン艦隊と日本人傭兵の戦闘に関し、寛永一年(1624)マニラのイスパニヤ政庁は日本人町に対して問罪の使節を派遣するが、一行の中には日本人教父ロマノ西がいた。ロマノ西はアユタヤに留まり伝道に着手、長政と行動を共にした。
 長政は自身は浅間神社信仰だったが、他の宗教に対しても寛容だった。日本人町にキリシタン教会の設立を許し、キリシタンと交流した。長政が関わったキリシタンの一人に、後に日本国内で壮絶な殉教死をとげるペトロ岐部がいる。このことは戦後になって明らかになった。

 だが長政の地位を決定的なものにしたのは、なによりも貿易商としての飛び抜けた才覚であった。各国の仲買人たちが入り乱れてしのぎをけずる国際都市アユタヤで、長政は熾烈な経済戦争に勝ち続ける。日暹の貿易はもちろん、マラッカ(マレーシア)やバタビア(インドネシア)などにも商船を遣わして盛んに交易を行った。長政はアユタヤを拠点とする貿易を一手に引き受け、その勢いは世界最大の交易企業の東インド会社を、勝算なしとしてアユタヤから撤退させてしまうほどであった。

 元和七年(1621)、山田長政は日本人町の頭領となった。この年、シャム国使節が来日し、二代将軍徳川秀忠に江戸城で謁見する。長政は幕府の老中土井大炊頭利勝・本多正純に斡旋状を送り、日暹の国交・親善に尽力した。
 シャムから送られた外交書簡の中には、長政がアユタヤ王室の貴族に叙せられたことが記されている。秀忠からは返翰と共に金屏風三双、鎧三領、太刀二振、名馬三頭が、シャム王室に贈られ、長政は幕府から正式に朱印を受けた。前述の長政が沼津城主の六尺をしていたという『異国日記』(元和七年九月三日)の文章は、この折に記述されたものである。

 寛永三年(1626)、長政は王室より「オークプラ」という官位を与えられ、オークプラ・セーナピモックの名で呼ばれるようになる(「セーナピモック」は「軍神」の意)。
 アユタヤ王室内で正規の官職についた長政は、静岡浅間神社に『戦艦図絵馬』を奉納した。絵馬の原図は天明八年の駿府大火によって消失したが、駿府勤番榊原長俊が模写した図が現在に伝わっている。

 寛永五年(1628)長政はついに最上位の官位であるオークヤー・セーナピモックにまで昇進した。翌、寛永六年(1629)には、長政の仲介でシャム使節が三代将軍徳川家光に謁見し、老中酒井忠世より長政に返書が送られる。しかし日暹の交流がますます盛んになる一方、長政の人生は不穏な方向へと大きく転回する。この年ソングタム王の崩御によって生じた王位継承をめぐる王室内の抗争に、長政はまきこまれるのである。
 シャム古来からの慣習では王位継承の優先順位は兄弟にあったが、長政は日本の家督相続の通例をふまえて、国王の遺児が即位することを主張した。これには亡きソングタム王の意向もあった。王族の宮内長官シーウォラウォンが長政の意見を支持し、王室は王の長子ジェッタを推すシーウォラウォンたちと、先王の弟シーシンを擁立する派閥に割れた。長政と共闘したシーウォラウォンは武装した日本人義勇軍八百名を王宮に配備、周囲をシャム軍二万人に守らせ、王子の戴冠式を強行した。この時、新王ジェッタは十五歳だった。
 権力を拡大したオークヤー・カラホム(シーウォラウォンから改名)は、対立する王室内の勢力を粛清し、反旗をひるがえした親王派を長政の軍に討伐させる。捕らえられた親王シーシンは刑死させられた。
 更に王位簒奪を謀るカラホムは、若い国王の怠惰傲慢な資質が国政を損なうと誹謗し、ジェッタを処刑してしまう。再びの王位継承問題に際し、長政はわずか十歳の第二王子アデットウンの即位を進言する。カラホムは長政の意見を受け入れ、王位はアデットウンが継承した。だが十歳の国王が国政を司ることなどは到底不可能であり、王室の実権はカラホムが掌握していたのである。
 一旦は長政に譲歩したカラホムだったが、アユタヤ王室内に強い影響力を及ぼす長政を遠ざけるため、当時隣国パタニーとの紛争で内乱状態にあったリゴール州の長官に長政を推挙する。アユタヤからはるか南のリゴール(六昆、現在のナコーン・シータマラート)は、アユタヤの宗主権下にあった王国である。
 リゴール平定に出立した長政と日本人義勇軍二千人は争乱を鎮め、長政は六昆王(リゴール国王)に任ぜられた。長政は小国といえども「王」となったが、事実上、長政はアユタヤを追われたのである。その間、アユタヤでは新王アデットウンがカラホムの策略で殺害された。アデットウン王の在任はわずか三十八日間だった。
 その知らせをリゴールで受けた長政は報復を決意するが、侵入するパタニー軍との戦闘中に脚部を負傷したことがもとで命を落とした。打ち込まれたのが毒矢であったとか、長政がリゴールを統治することに不満を持つリゴール人が傷口に毒を塗ったとか、カラホムの配下の者が毒を盛ったとか諸説があるが、真相は判らない。寛永七年(1630)、長政は四十歳だった。

 翌年、新たな国王には摂政のカラホムが即位し、カラホムはプラサート・トーン王となった。長政が仕えたソングタム王の係累は絶えたのである。
 不思議な因縁だが、長政が若き日に仕えた沼津藩大久保家も断絶している。嗣子の弥八郎が早世したため、大久保忠佐は弟の大久保彦左衛門忠教(ただたか)に、養子となって家を継ぐよう依頼した。だが忠教はその要請を断った。慶長十八年(1613)、沼津城主大久保忠佐が歿し、大久保家は絶えた。長政はそれを知っていただろうか?
 長政の死後、シャムの日本人たちも悲惨な運命に見舞われた。日本人義勇軍がプラサート・トーン王を王位簒奪者としてその正当性を認めなかったため、アユタヤ日本人町はプラサート・トーン王の命によりシャム軍に焼討ちされた。長政の子オーククン・セナーピモックは父の跡をついでプラサート・トーン王の軍と戦うが、カンボジアへ敗走し、ほどなくしてその地で死したと伝えられている。事件が一段落したのち、国外に難を逃れていた人々が徐々にアユタヤに帰って来るようになり、日本人町が再建されたが、かつての繁栄は二度と取り戻すことが出来なかった。

 寛永八年(1631)、シャムの国書が幕府に届き、長政の死が知らされた。金地院崇伝の日記によれば、寛永八年十二月二十八日に江戸城へ登城した折、崇伝、林羅山(道春)、羅山の弟東舟(永喜)の三人でこの文書に目を通した。長政が病気で死亡し、養子(?)のオクンが謀反を起こしたと書かれていた。

《山田仁左衛門病死、其養子功(巧)謀逆候様成文体》『本光国師日記』

 二十年前、家康が大御所政治を行っている時分、彼らはみな駿府にいた。みな馬場町の山田長政の実家の目と鼻の先に住んでいた。みなまだ若く、日本は海外に向かって開いていた。駿府の城外で、浅間神社の門前で一瞬交差していたかもしれない山田仁左衛門長政の客死を、羅山たちはどのように受けとめたのだろうか。プラサート・トーン王の国書に対する返書は出されず、日暹両国の国交は断絶した。
 四年後の寛永十二年(1635)、日本に鎖国令が引かれた。起草者は林羅山だった。長政が築いた日本とシャムの友好関係、日本と世界との交流、国際貿易は、稀代の経済人長政の死とともに終わりを告げたのである。