六昆見聞記 山田仁左衛門長政再考

■はじまり
 二〇〇七年十月二十一日・二十二日の二日間、私たちはタイ政府観光庁(TAT)の招待で、タイ南部のナコン・シータマラート市を訪問した。ナコン・シータマラート市はバンコクから南へ約八〇〇キロ、タイ湾側に位置する県都である。私たち日本人には、十七世紀前半に渡海してアユタヤで活躍した山田長政の終焉の地「リゴール」として知られている。リゴールはナコン・シータマラートの古い呼び名である。
 私たちが公的に要請されていたのは、同地で開催された「日タイ修好120周年記念式典」への出席であったが、私にはナコン・シータマラートの土を踏むこと自体が大きな目的だった。私は静岡市の浅間通りにある山田長政生家跡のすぐそばで古書店を営んでいる。商売の性格を利して長政関連史料を蒐集しているため、多少は山田長政の事蹟に詳しくなり、講演の依頼なども時折くる。まがりなりにも在野の山田長政研究者と目されている以上、一度はナコン・シータマラートを訪れないわけにはゆかなかったのである。
 ドンムアン空港から国内線のノックエアーで1時間。ナコン・シータマラートの空港では、TAT南部タイ事務所長のウィチョーク・アウンマネー氏と現地TATスタッフが、私たち静岡の訪問団一行を出迎えてくれた。ウィチョーク氏の案内でナコン・シータマラート市内の旧跡を巡りながら、同市と山田長政の関わりについて説明を受け、私は従来の山田長政伝を大幅に修正する必要を強く感じた。
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■ナコン・シータマラートにおける山田長政観
 果たしてナコン・シータマラートの人々は山田長政をどのように印象しているのだろうか。
 リゴールというナコン・シータマラートの旧名は、江戸時代初期の山田長政文献に既に現れている。リゴールを日本語では「六昆」と書く。
 一六三〇年頃、隣国パタニーとの紛争で内乱状態にあったリゴールを平定するため、山田長政と日本人義勇軍二千人がアユタヤ王室の意向で派遣された。長政の部隊は七日七晩の激戦の末に争乱を鎮め、リゴールは治安を回復した。
 長政はリゴールの長官(六昆王)に任ぜられるが、ほどなく不慮の死をとげる。パタニー軍との戦闘中に負った脚部の傷が原因だと言われる。毒矢が打ち込まれたのだとか、長政がリゴールを統治することに不満を持つリゴール人が傷口に毒を塗ったとか、長政と対立するアユタヤ王室の配下の者が毒を盛ったとか諸説があるが、真相は判らない。
 このように山田長政の生涯からリゴールの名は外せないにもかかわらず、現代のナコン・シータマラート(あるいは四〇〇年前のリゴール)の具体的な記述を含む長政評伝はほとんどない。伝記のみならず、数多く書かれてきた山田長政を主人公とする小説でも、作者が実際にナコン・シータマラートまで赴いて取材をした例は、私が知るところでは岩城雄次郎と江崎惇だけである。

 昭和四十七年、静岡市の作家江崎惇は、アユタヤの日本人町跡に建立された日本人町顕彰碑の除幕式に出席した後、単身ナコン・シータマラートを訪れた。その折りの紀行が「タイ国に山田長政の遺跡を訪ねて」のタイトルで『山田長政資料集成』に収録されている。しかし私は江崎の文章をそのまま信頼してよいものかどうか、躊躇するのである。例えば《バンコクからナコンまでは一五〇〇キロ。汽車で八十時間である》と報告しているが、これは正確な数字なのだろうか。また江崎は、岩城雄次郎が《マハータート寺》で《はからずも長政の墓を発見した》と書いている。これが事実ならば一大発見である。なぜこの情報が広く流布していないのか。下って昭和六十一年に刊行された江崎の著書『史実山田長政』にも、江崎は《六昆、現ナコン・シータマラートの、マハータート寺(大聖骨寺院)には、長政のチエデイ(舎利塔)があり、その中に骨が納められている》と記している。残念ながら、今回の訪問でこの真偽を確かめることは出来なかった。

 さて肝心のナコン・シータマラートでの山田長政評だが、この四半世紀に日本国内で出版された長政評伝の多くが、ナコン・シータマラートの人々は山田長政に強い反感をいだいていると解説している。
 小和田哲男静岡大学教授の『史伝山田長政』は、山田長政評伝として最もバランスのとれた好著である。しかしその著作でさえ、山田長政はナコン・シータマラートでは嫌悪の対象だとしている。

《今でも、ナコン・シータマラートには、長政のことを歌った子守歌があるという。「坊やよい子だねんねしな。泣くのを止めぬと日本人の頭領が、女や子供をさらいにくるよ」(NHK歴史ドキュメント「山田長政の謎」昭和六十二年二月十四日放送より)という歌詞であるが、ここで歌われている「日本人の頭領」は長政であることは疑いない。つまり、従来、日本人がとらえる長政観は、いつも「英雄」としてとらえられていた。リゴール、すなわち、ナコン・シータマラートの人びとにとっては、長政は侵略者であったという側面を、われわれ日本人は忘れてしまいがちである。 −中略− 長政はそのころのナコン・シータマラートの人びとからは、「日本人の暴れん坊が荒らしに来た」という印象でうけとめられ、ナコン・シータマラートの人によって殺された可能性が高かったことを忘れるべきではないと思われる》

 同様な子守歌の紹介は『アジア読本タイ』が所収する岩城雄次郎の文章にもある。
《南タイ文化研究所で、当地に残る子守唄の歌詞を見出したことは、なんとも衝撃的な出来事であった。というのは、その子守唄は、ナコーンシータンマラートを支配しに来た日本の殿(長政)への恐怖を表したもので、私自身後にまた当地へ行って、直接二人の老人からその子守唄を歌ってもらうことができた。その一人はプリークさんという文盲の婦人(八五歳)で、私の携行したテープレコーダーに吹き込んでくれたのは、次のような歌であった。 坊やよく聞け/ねんねしながら/アユタヤ下りの日本の殿が/わがもの顔で人の国荒らし/子どもはつかまえ/女子も若い衆も/町中さらって/思うがままにするんだよ》

 口承伝承の子守歌が歴史的事実を正しく伝えているのか否か甚だ疑問だが、山田長政の事蹟はもとより歴史的実証性に乏しいものであるから、このような断片的な情報も「史料」として採取されることになる。二十年前、世論に多大な影響力を持つNHKがこうした事例を番組で取り上げた結果、山田長政はナコン・シータマラート(あるいはタイ)では侵略者として嫌悪されているという論調が形成された。そのため、静岡県や静岡市の行政サイドは、山田長政は日タイ友好の象徴としてふさわしからざる人物だと考えているようだ。

 ところが、ナコン・シータマラートでの山田長政の評判は、前述したような言説とは全く異なっていたのである。
 ナコン・シータマラート市長のソムヌック・ケートチャート氏は、日タイ修好120周年記念式典のスピーチで、《「山田長政はこの地の人々を守るために戦うなど、人々の尊敬を集めている。ナコンシタマラート県と日本は数百年前から友好関係にある。我々は古くからの友人を決して忘れない」と述べ、日本からの訪問団を歓迎した》(『バンコク週報』二〇〇七年十月三〇日記事)。
 山田長政は初めてナコン・シータマラートを訪れた日本人だと言うウィチョーク氏も、長政をナコン・シータマラートへの隣国の侵攻を阻止した戦士として高く評価している。
 市内プラシーナカリン公園の日本庭園には「山田長政この地に眠る」と刻まれた石碑が建ち、山田長政は日タイ友好のシンボル的人物として敬意を払われている。この乖離はどこに由来するのだろうか。

 私はナコン・シータマラートの歴史をウィチョーク氏から聞き、これまで日本人の長政研究者がナコン・シータマラートの歴史的意味を全く視野に入れていなかったことに気づき愕然とした。それは私自身の「無知」を指摘するものでもあった。
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■ナコン・シータマラートの歴史
 日本の長政伝は、山田長政はアユタヤ王室内の権力闘争に巻き込まれ、長政と対立する派閥の策略によって、当時アユタヤの支配下にあった辺境の地=ナコン・シータマラートへ左遷させられたと語る。だがこのような解説では、ナコン・シータマラートの「立場」を見誤ってしまう。
 長政が仕えたアユタヤ王朝は十四世紀中期から十八世紀中期にかけて繁栄した王朝である。そのアユタヤよりも、ナコン・シータマラートは遥かに古い歴史を持つ。三世紀頃にはインドからの入植が始まり、大乗仏教が信仰された。十二世紀に成立したナコン・シータマラート王国は上座部仏教を国教とし、一時的にはマレー半島全域を統治するほどの勢力を誇っていた。
 ナコン・シータマラートがタイにおける上座部仏教発祥の地であるという事情は、きわめて重要である。ナコン・シータマラートにはムアンプラ(僧の街)の別名がある。町の中心に立つワット・プラマハタートは、三一一年に建設されたと地元では伝承されているが、歴史学者たちは、実際は十三世紀頃にナコン・シータマラート王国によって建立されたのだろうと考えている。
 この時代、ワット・プラマハタートは全盛期を迎え、一万二千人の僧を擁して仏教教育を行っていた。またスコータイ王朝(アユタヤ王朝の前王朝)からの要請を受けて、僧侶をスコータイに送り出し、タイ中部の仏教隆盛に多大な貢献をした。現在もワット・プラマハタートはタイ仏教の聖地として巡礼者が絶えることがない。
 このようにナコン・シータマラートは古くからタイ南部の文化的中心地だった。と同時に、山田長政の生きたアユタヤ時代時代、アユタヤとヨーロッパを結ぶ海上交通ルート上に位置するナコン・シータマラートは、タイ南部最大の交易拠点として経済の中心でもあった。
 更にナコン・シータマラートが、パタニーなどのマレー系(イスラム)諸王朝に対する軍事的な防衛都市として機能していたことも見落としてはならない。ナコン・シータマラートは町の周囲を城壁が取り囲む堅牢な城塞都市である。現在も残る城壁が、往時のナコン・シータマラートの重要性を雄弁に物語っている。
 したがって、従来の長政伝が提供してきた「リゴール(ナコン・シータマラート)=アユタヤ王朝の支配下にある辺境の属国」という理解に、私は疑義を抱く。

□十七世紀のタイ(シャム)はアユタヤを首都とする中央集権的な国家ではない。
□アユタヤとリゴールは独立した国家として対等な関係にあった。
□ナコン・シータマラートは隣国の侵攻にさらされていた。単なる地域紛争ではなく、アヤタヤにも重大な影響を及ぼしかねない「危機」だった。
□アユタヤは、タイ南部の文化的中心地・経済的中心地をイスラム勢力から防衛するために、最強の精鋭部隊を派遣した。
□それが山田長政(タイ名、オークヤー・セーナピモック)と長政が率いる日本人義勇軍だった。

 ワット・プラマハタートを案内してくれたウィチョーク氏は、山田長政は仏教徒だと断言した。長政は五千体の仏像を祀るこの寺院を必ず訪れて拝礼しているはずだと語った。ウィチョーク氏の見解では、「ナコン・シータマラートの町を守った」長政は、タイ仏教の守護者だった。これを聞き、私はずっと疑問に思っていた長政伝の一部に、新たに明快なストーリーを見出すことが出来た。

 一六二六年、山田長政は静岡浅間神社に『戦艦図絵馬』と呼ばれる絵額を奉納している。このことから、長政は静岡浅間神社を信奉していたというのが定説となっている。しかし静岡浅間神社は、浅間(あさま)神社・神部(かんべ)神社・大歳御祖(おおとしみおや)神社・その他境内に所在するいくつかの神社の総称で、果たして長政は、どの神社に『戦艦図絵馬』を奉納したのか、あるいは奉納するつもりだったのか、私は常々気になっていたのである。
 渡タイ以前に山田長政が住んでいた静岡市馬場町は、浅間神社内大歳御祖神社の門前である。同神社は豊饒神・商売神であるから、おそらく長政が祈願していたのは、貿易・交易の成功だったのだろう、と私は考えていた。だが長政が「仏教徒」だとしたらどうか。
 しばしば勘違いをしてしまう事だが、江戸時代までの静岡浅間神社は「神社」ではない。静岡浅間神社が神道の社となったのは明治以降の事で、それまでは神仏の寺社が混交し、静岡浅間神社の境内には仏教寺院が存在していた。中でも最も重要な寺社が、徳川家康が信仰した摩利支天社だった。摩利支天は戦いの神である。
 山田長政の奉納した絵馬がなぜ「戦艦図」だったのか。長政が祈願したのは「戦勝」だったからではないのか。山田長政が信仰していた神は、家康と同じく、摩利支天だったのではないのか。
 神仏分離令によって廃仏毀釈が施行され、現在は摩利支天社は八千矛神社となっている。

 山田長政はアユタヤでも仏教徒であった。王の後継者争いに巻き込まれたと言われる。そうだったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。新王となったプラサートトーン王と対立し、追放されるようにリゴールへ送られたと言われる。そうだったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。プラサートトーン王と長政の間には変わらぬ友情があり、王は最も信頼できる人物をリゴールの防衛のために派遣したのかもしれない。彼らの歴史を実証する史料はない。すべてはストーリーである。ナコン・シータマラートの人々と私たちは、どんなストーリーを共有できるのだろうか。山田長政と日本人部隊がナコン・シータマラートで殺戮と略奪を繰り広げ、住人から報復を受けて長政が殺害されたというストーリーを一部の日本人は好むようだ。しかしそれは、私や、私が知り合ったナコン・シータマラートの人々が信じるストーリーではない。
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■終わりの場所
 ナコン・シータマラート県庁舎の前に瀟洒なカフェがある。「珈琲廰」と書かれた扁額が掲げられ、とても美味しいタイコーヒーが飲める。約四百年前、この場所に山田長政が率いる日本人部隊五百人が駐留していた。表通りには「ナガマサ通り」(ナーンガム通り Nahg Ngam Road)という名が付いている。駐車場の片隅に「ナガマサ井戸」と呼ばれる井戸があり、今も使われている。個人が所有している土地なので、この史蹟を保護することは難しいが、いずれは市の文化遺産として守ってゆきたい、と解説をするウィチョーク氏の口調に、彼がナコン・シータマラートの歴史に誇りを持っていることがうかがわれた。
 ウィチョーク氏はナコン・シータマラートのどこかに山田長政の血を引く者がいるのではないかと考えている。長政にはオクンという息子がいた。オクンも父親と共にナコン・シータマラートのために戦った。長政の妻はタイの女性だったのだろうか、オクンに妻や恋人はいなかっただろうか、ナコン・シータマラートを守った日本人たちはこの町で生涯の伴侶とめぐりあったというようなことはなかっただろうか。私は直感的に、ウィチョーク氏の想像は正しいと思う。

 十月二十三日、ナコン・シータマラートからバンコクに戻った私たちは、スミタ・カルチャー・センターを主宰する住田千鶴子女史にご仲介いただき、映画監督のノッポーン・ワルティン氏と面会することが出来た。ノッポーン氏はいま製作が進められているタイ映画『YAMADA-THE SAMURAI OF AYUTHAYA』のメガホンをとっている。ノッポーン監督は若き日のナガマサのストーリーにタイ女性との出会いを織り込んだ。ヤマダナガマサを演じる日本人俳優大関正義氏は、故国に戻ることのなかった長政の背後に、歴史に残らなかった女性をみている。大関氏は長政と同様、単身タイに乗り込んだ日本人である。


 私はナコン・シータマラート市のカフェで、コーヒーを運ぶ美しい少女店員を眺めながら、ナガマサはこの地で人生を終えたことを決して後悔していない、と確信した。
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TAT南部タイ事務所長ウィチョーク・アウンマネー氏とTAT南部事務所スタッフ、二日間のガイド役を務めてくださったナコン・シータマラート在住の小峰博明さん・ヌーヌーさんご夫妻の「友情」に感謝します。静岡は山田長政の「始まりの場所」で、ナコン・シータマラートは山田長政の「終わりの場所」でした。「終わりの場所」が静岡(日本)とナコン・シータマラート(タイ)の、「終わらぬ」友好の場所であることを心から願います。

そして今回の「旅の仲間」でもあったTAT東京事務所のセッタポン・トリチョープ氏に、改めて御礼を申し上げます。セッタポン氏の的確なサポートによって私たちの旅の安心が保証されました。

鈴木−チャイヨー−大治
平成19年11月8日