伊布岐於呂志(いぶきおろし) |
平田篤胤
刊行年不明西暦 |
『伊布岐於呂志』は平田篤胤の講説を門人が筆記したものである。
駿府にも多くの弟子を持っていた平田篤胤は、山田長政の「伝承」についてもよく知っていたとみえ、本書では長政の事蹟が「説話」として完成されている。
初版は文化10年(1813)に上梓された。
他の資料本によれば『伊布岐於呂志』には「戦艦図絵馬」の図版が附されていたということだが、本書にはそれがない。
「気吹舎(いぶきのや)」から刊行された本書は初版とは異なるのであろう。実際、48丁裏は版木の三分の二が埋められ、ここに記述されていたと思われる「戦艦図絵馬」に関する記事が削除されているようだ。
ちなみに平田篤胤は、浅間神社内の玉鉾神社に国学四大人の一人として祀られている。
|
山田長政傳
山田長政一代記
山田長政偉勲録
|
関口隆正(無改子)
草深十丈書屋
明治25年(1892)
岡村信太郎
静岡大務新聞社
明治25年(1892)
間宮武
函右社
明治25年(1892)
|
明治25年は山田長政の当たり年であった。いずれも静岡で刊行されたこの三著作の登場によってようやく、複数の史料を参照した信頼性のある山田長政研究が始まった。
特に重要なのが『山田長政伝』である。著者の関口隆正は、静岡県初代知事関口隆吉の娘婿。関口は『山田長政伝』を自費で出版した。関口が何故長政に関心を持ったのかは判らないが、山田長政は戦闘の際に足に受けた傷がもとで命を落としたと言われ、関口の義父隆吉が鉄道事故で足に負った傷が原因で亡くなった事に、因縁めいたものを感じる。 |
高等讀本 六 |
山縣悌三郎:編纂
文學社:発行
明治26年(1893) |
「山田長政」の項には二課をあてている。この明治25、6年頃、山田長政ブームがあった。その発火地点は明治25年の静岡で、やがて全国的なものになっていったようだ。
山田長政は、静岡ではもちろん静岡人ということになっているが、他所ではそうはゆかない。本書でも長政は静岡の生まれではない。
小伝としてはかなり詳細だが、創作がほとんどである。 |
山田長政遠征記 |
桃川燕林 口演
中村卓三・芦野島子 速記
大川屋書店
明治35年(1902)4版
明治27年(1894)初版 |
桃川燕林は明治の講談師。静岡に取材して「山田長政遠征記」を創作した。長政伝は文字で記録されたものばかりではなく、口伝で伝承された逸話も多いものと思われる。山田長政が沼津城主の大久保忠佐と出会うエピーソードは、本作以前の長政伝には現れないものである。明治の静岡市中にはこのような長政伝が残っていたのかもしれない。 |
高等小學 日本歴史大要 甲種 三 |
右文館:編纂
右文館:発行
明治34年(1901) |
「外国交通」の章に山田長政の名が登場する。
《山田長政の如く、偉功を海外に立てし者も出たりしが、其の後、天主教の亂ありしが為、諸外国の交通は、全く禁止せらるゝに至れり。》 |
静岡縣補習讀本 巻五 |
静岡縣教育會:編纂
吉見義資(吉見書店):発行
大正12年(1923)7版 |
羽倉用九の山田長政記事(漢文)を収録している。
同文の初出は文政11年(1828)の『駿河府志』。
羽倉用九は、羽倉外記、羽倉簡堂とも称した幕臣。諸国の代官を歴任し、駿府にも赴任した。花野井有年と交遊があったようである。
本書には山田長政が静岡浅間神社に奉納した「戦艦図絵馬」が掲載されているが、この図が一般に知られているものとは異なる。
現在は「戦艦図絵馬」の図版としては、榊原長俊が原図より模写した図が使用されるが、これは大正12年12月に浅間神社に奉納されたもので、『静岡縣補習讀本 巻五』の初版が刊行された大正7年の時点では、まだ長俊模写版はその存在が世に知られていなかった。
そこでこの教科書には、神社が社宝としていた「榊原長俊の模写から再度模写した図」が使われているのである。
※「戦艦図絵馬」の原図は天明8年(1788)の火災で焼失している。 |
静岡遊行記 |
田中貢太郎
民友社
大正14年(1925) |
静岡県下の旅漫録。
所収の「山田長政のことなど」に、著者が浅間神社訪問した折に「戦艦図絵馬」を拝観した事や、山田長政事跡の概略が解説されている。 |
小學生全集37 日本偉人傳 上 |
菊池寛編
文藝春秋社
昭和2年(1927) |
編集は菊池寛。所収の「六昆王山田長政」の執筆者は不明。
山田長政が「駿河の国安倍郡藁科村の百姓、山田清兵衛の倅の政蔵」となっているなど、脚色が多いが、子供むけの読み物としてはよく出来ている。
学校で修身の副読本のように使われていたのだろうか。 |
耽奇漫録 日本随筆大成巻十二 |
曲亭馬琴(瀧澤馬琴)
吉川弘文館
昭和3年(1928) |
『南総里見八犬伝』で知られる馬琴は、一時期「耽奇会」という古物考証の集まりを仲間たちと開いていた。
その会に長政の「戦艦図絵馬」が出品されたことが、本書に記録されている。「戦艦図絵馬」を持ち込んだのは軍学者の榊原台谷。焼失した原図を模写した駿府勤番榊原長俊の子が台谷である。
その後、長俊模写版「戦艦図絵馬」は榊原の門人から門人へと伝えられてゆき、200年を経て、周智郡森町の医師宅から発見されるのである。
『耽奇漫録』原本の刊行は文政8年(1825)。 |
安倍郡郷土讀本 尋常科用 |
安倍郡教育会編纂
安倍郡教育会
昭和7年(1932年) |
「狐ヶ崎遊園地」の章に、狐ヶ崎に山田長政の像が立っていたことを証する記述がある。以下に引用。
朱塗りの釈迦堂を拝んで頂上に着くとも東の方に清水湾が一目に見えました。薩?峠の山並みの上に富士も大きく見えました。丘の広場には桜が沢山植えてあります。飛行塔もあり、又我が駿府の生んだ偉人山田長政の像も建てられてゐました。
※「朱塗りの釈迦堂」は「山田長政堂」、現在の「聖一国師堂」である。 |
日本精神講座 第九巻 |
新潮社
昭和9年(1934) |
田中貢太郎の「山田長政の片鱗」を所収。
《長政は駿府の浅間神社の前にあつた宮ヶ崎の嘉兵衛と云ふ紺屋の家に養はれてゐたと云ふ説もある》との一節があるが、この説の出典は不明である。古くからの長政像を踏襲し、勇ましい武人としての山田長政の成功と悲劇が語られている。
時局の要請を受けて、国策を補強するような文章。 |
山田長政 |
三木栄
古今書院/昭和11年(1936) |
三木栄はタイ文部省芸術局の嘱託として40年間にわたってタイに在住し、王室美術院技師のかたわら長政研究に貢献した。
静岡浅間神社の「日本義勇軍行列の図」は、三木が奉納したものである。 |
静岡讀本 巻一 |
静岡市教育會
静岡谷島屋書店・吉見書店:発行
昭和13年(1938) |
「山田長政」の項を所収。
記事の執筆者は不明。太田家が奉納した軸仕立ての長政肖像画と、浅間神社神職が模写した「戦艦図絵馬」の図版が掲載されている。 |
タイ國地誌 |
能登志雄
古今書院
昭和16年(1941) |
「第6編 國家及び文化」中の「タイ國と日本」の項に、山田長政についての記述がある。 |
日本と泰國の關係 |
内田銀蔵
創元社
昭和16年(1941年) |
本書は歴史学者内田銀蔵の論稿だが、本文の半分を附録の「山田長政小傳」がしめる。「山田長政小傳」筆者の高瀬重雄の詳細は不明。
あとがきには、《この稿を起すはじめに、新村出先生から色々御教示を受け、また先生の義兄に當られる關口隆正氏の「山田長政傳」を頂きました。》とある。「広辞苑」の編纂者として知られる新村出は、静岡県の初代県知事関口隆吉の実子、関口隆正は関口隆吉の娘婿である。高瀬重雄は静岡と関係のある人物なのかもしれない。 |
六昆王山田長政 |
村上直次郎
朝日新聞社
昭和17年(1942) |
本書に併録された『シャム革命史話』(ファン・フリート)は、昭和に入ってからオランダのハーグにある公文書館で発見された17世紀の文書である。
ファン・フリートは当時世界最大の貿易会社「東インド会社」のアユタヤ商館長だった人物である。山田長政とは貿易上のライバルという立場にあり、「敵」といっても過言ではない。事実、東インド会社は長政との貿易競争に敗れ、一時期暹羅(タイ)から撤退し、アユタヤの事務所を閉鎖している。長政とそのような関係にあった人物の手による文書であるからには、長政を悪し様に記述することはあっても、フィクショナルに美化する可能性はまずないと考えられ、信頼性の高い記録だと考えられている。
江戸時代から昭和初期まで、長政のタイでの事蹟は、口承される伝説以上のものではなかった。それが東インド会社の社員が残した言うなれば「業務報告」よって、長政研究は飛躍的に進捗したのである。そしてこの世紀の発見を後押ししたのは国策にそった「南洋研究」であった。 |
初等科修身 二 |
文部省/東京書籍/昭和17年(1942)翻刻(2版) |
「山田長政」の項を所収。
記事の執筆者は不明。勇ましい武人の印象を強くする記述である。創作部分が多いので、批判の対象にはなりやすい。 |
名作歴史文學 山田長政 |
佐藤春夫
聖紀書房
昭和18年(1943) |
中編の「山田長政」を所収。
佐藤春夫が山田長政をあつかった小説を書いていることは、あまり知られていない。珍本。 |
日泰関係と山田長政 |
中田千畝
日本外政協会
昭和18年(1943) |
戦時下の国策が色濃くあらわれている。
前編が長政、後編で息子のオインの事蹟を詳しく紹介しているのが特色。
『暹羅国山田氏興亡記』『暹羅国風土軍記』『氣吹颪』の史料を併録。 |
つうかい偉人まんが物語 山田長政 |
大城のぼる
小学館 小学四年生12月号ふろく
昭和29年(1954) |
戦後もしばらくは山田長政はこどもたちの英雄だった。学習漫画の主人公になるような人気者である。それがいつの頃からか、侵略者、植民地主義、軍国主義の象徴として激しいバッシングを受けるようになる。
本書の6頁に「山田長政のしょうぞう」という絵があるが、このモデルとなった「胸像」はおそらく、昭和15年10月の「紀元二六〇〇年奉祝記念美術展覧会」に出陳され、その後、静岡市追手町の「静岡県貿易館」に置かれていた山田長政像だと思われる。この胸像は現存しない。あるいはどこかに現存しているのか。作者がこの絵を描くにあたり、どんな資料を典拠としたのか興味深い。 |
静岡県郷土物語 |
鈴与株式会社編集
静岡県郷土物語刊行会(清水市立図書館)
昭和30年(1955) |
「山田長政」の項を所収。
本書は、昭和28年(1953)から昭和30年(1955)にわたってラジオ静岡で放送された「静岡県郷土物語」の放送原稿をまとめたもの。スポンサーの鈴与株式会社の編集となってはいるが、実際の作業は法月俊郎によって行われたものと思われる。
山田長政の項を担当したのは渡邊衛。「静岡大学教育学部附属静岡中学校教諭」の肩書きがついている。 |
山田長政 |
山岡荘八
宝文館
昭和32年(1957) |
山田長政を主人公にした時代小説。
現在は、講談社から刊行されている「山岡荘八歴史文庫」で読むことができる。 |
駿河国雑志 府中編 |
花井有年
静岡郷土研究会
昭和34年(1959) |
花野井有年(花井有年) はなのい ありとし
寛政11年(1799)3月21日生。
江戸大阪で医学を学び、安西に開業した。
和漢学に通じ和歌も能くし、「昌斎」と号した。
「木枯の森」には有年の歌碑が建っている。
「吹きはらふ こずゑの音は静にて 名にのみ高き こがらしの森」
著書に『医方正伝』『庚丑雑記』などがある。
幕末駿府の奇書『安鶴在世記』は有年が実際の作者だと言われている。
羽倉簡堂と交遊あり。
慶応元年(1865)歿、67才
本書は、嘉永5年(1852)に書かれた『駿河国雑志』の翻刻である。
山田長政に関する記事は、馬場町の項目に出てくる。
馬場町に居住する「山田半七」は山田長政の子孫で、同家には「古器と長政の印を蔵す」と記されている。 |
国際ロータリー第360区年次大会記録 |
静岡ロータリークラブ
昭和35年(1960) |
映画『山田長政−王者の剣』の原作を書いた村松梢風は、映画の完成にあわせて静岡ロータリークラブで講演を行った。
本書所収の「山田長政と静岡」は、その講演を記録したたいへん貴重な資料である。
ただし植字ミスが多いのが難。
※村松梢風は遠州の森町出身。作家村松友視の祖父。 |
世界ノンフィクション全集29 |
筑摩書房
昭和37年(1962) |
所収の「山田長政」はアユタヤに駐在していた東インド会社社員エレミヤス・ファン・フリートが記した『シャム革命史話』の新訳。
この他、本書に収録された評伝が、ネロ、ラスプーチン、黒シャツ党と悪役ばかりなのはご愛嬌。 |
山田長政の真の事蹟 |
三木栄
私家本
昭和37年(1962) |
長政研究の第一人者の三木栄が謄写版印刷(!)で刊行した自費出版物。
本書には著者が詠んだ山田長政讃頌が書きこまれている。 |
山田長政の真の事蹟及三木栄一代記 |
三木栄
私家本
昭和38年(1963) |
『山田長政の真の事蹟』に著者の自伝を増補した三木栄読本。
三木の友人知己が多数寄稿している。
静岡人も登場し、資料性が高い貴重なものである。 |
山田長政の史的考察 |
村本山雨楼
政教社
昭和38年(1963) |
村本山雨楼は本名「村本喜代作」。明治23年(1890)、焼津に生まれた。郷土史家・作家。静岡民友新聞の記者・編集者を経た後、政教社を設立し、「月刊うわさ静岡」の発行や自らの著作を刊行した。
転居した西草深町に長く暮らし、西草深町内会長を20年にわたりつとめた。この功績を称え、浅間通りの裏手の西草深二加番稲荷神社には村本喜代作の明徳碑が建てられている。
本書は大部な著作ではないが、戦前から長政を研究してきた山雨楼の、山田長政論考の集大成といえるものである。
山雨楼は「山田長政顕彰会」の活動にも尽力した。長政の事跡を後世に残した功績は大きい。 |
アユタヤを訪れる人のために |
細田正
私家本
昭和46年(1971) |
「バンコク日本人商工会議所月報」に連載されていた文章を一冊にまとめたもの。著者は日本航空調査開発室に勤務し、長くタイに滞在していたようである。
山田長政の事蹟のみならず、当時の日タイ関係、国際貿易、タイ王国の歴史についても詳細に記述されている。写真も豊富。
ただ、長政関連の図版が、三木栄の著作を撮影したものと思われるふしもあり、本書を一次資料として使えるかは疑問が残る。 |
ふるさと百話 第二巻 |
静岡新聞社
昭和46年(1971) |
静岡新聞に連載された「風雲児と反逆児 山田長政と由井正雪」を所収。
執筆者の安本博は『静岡市史 近世』で山田長政の項を担当した静岡の郷土史家。本書に掲載された「山田長政の座像」(静岡浅間神社所蔵)の図版は、他の研究書類ではまったく見ることができず、たいへん珍しいものである。
また、大映映画『山田長政−王者の剣』の製作裏事情についてもふれている。これも本書でしか知ることができない。 |
日本史探訪 第七集 |
角川書店
昭和48年(1973) |
NHKの歴史ドキュメント番組『日本史探訪』をテキスト化した単行本。
陳舜臣が解説する「山田長政」を収録。
番組取材を生かし、タイ現地の写真も多数掲載している。 |
メナム河の日本人 |
遠藤周作
新潮社
昭和48年(1973) |
山田長政を主人公とした戯曲。脇役にペトロ岐部を据え、小説『王国への道』の原型でもある。
劇団雲によって上演され、山崎努が山田長政を演じた。
読み物としても非常に面白い。 |
静岡の人びと |
飯塚伝太郎編
静岡市教育委員会
昭和49年(1974) |
「山田長政」の項を所収。
本書は静岡市教育委員会が刊行した静岡の人物事典である。山田長政の記事には特別多くの字数が費やされているが、ここに紹介されている長政の来歴には「創作」が多く、資料として信頼できるものではない。執筆者は不明。 |
山田長政資料集成 |
山田長政顕彰会
昭和49年(1974) |
静岡の「山田長政顕彰会」によって編纂された、長政の基本文献・資料の集大成。刊行から30年後の現在も、本書を凌ぐものは出版されていない。研究には必携。
※収録史料
「記山田長政暹羅王事」山梨稲川
「暹羅国山田氏興亡記」智原五郎八
「天竺徳兵衛物語 漂流奇談」天竺徳兵衛
「山田仁左衛門渡唐録」太田家所蔵本
「駿河志料」新宮高平
「駿河国史」榊原長俊
「駿河府志」羽倉簡堂
「山田長政戦艦図記」塩谷宕陰
「山田長政本伝」関口隆正 他 |
静岡県人 |
遠藤秀男
新人物往来社
昭和49年(1974) |
「異郷の勇者−山田長政」を所収。
著者は富士宮の郷土史家。 |
静岡市町名の由来 |
鈴木雄蔵
静岡谷島屋
昭和50年(1975) |
鈴木雄蔵は大岩本町に居住した郷土史家。
本書には、井宮町の浄功院(現・松樹院)に山田長政が奉納したと伝えられる薬師如来の石像があることが記されている。
現在、松樹院にある石像は渡来したものではない。しかし奉納は必ずしも「現物」を納めるものではなく、金銭を寄付しそれで仏像を奉納するよう指示することがあるので、「長政奉納」が事実であった可能性も否定されるものではない。 |
「南進」の系譜 |
矢野暢
中公新書
昭和50年(1975) |
著者は山田長政を戦前の南進(侵略)政策のシンボルであるとして激しく批判している。
山田長政非実在説も唱え、物議をかもしだした。その影響は現在も残っている。 |
山田長政ずっこけ武勇伝 |
八切止夫
日本シェル出版/昭和52年(1977) |
所収の「紺屋大将」が長政の物語である。
著者は歴史に異説をとなえることで有名で、本書の山田長政像もなんとも珍妙なものになっている。タイトルどうり、「ずっこけ」。 |
タイの歴史 |
ロン・サヤマナン 二村龍男訳
近藤出版社
昭和52年(1977) |
著者はタイの名門チュラロンコン大学教授。
山田長政はタイではまったく知られていない人物だという言説があるが、本書のアユタヤ王朝の章には山田長政の事蹟がはっきりと記されている。 |
呂宗助左衛門の世界 南海に雄飛した戦国時代の日本人 |
産報デラックス 99の謎 歴史シリーズ8
産報ジャーナル
昭和52年(1977) |
セラフィン・キアソン(マニラ国立図書館館長)、シルビニオ・エピストラ(フィリピン大学教授)、西野潤治郎(タイ・日本人会会長)による鼎談「呂宗助左衛門、高山右近、そして山田長政」を所収。
編集部のアユタヤ現地ルポ記事もある。 |
雄魂山田長政 |
小澤親光
住宅新報社
昭和53年(1978) |
著者は下関の歴史研究家。
長政がつかえた沼津城主大久保忠佐にも一章をあてている。 |
郷土史事典 静岡県 |
杉山元衞 編
昌平社
昭和53年(1978) |
編者は静岡県立中央図書館員。
「故郷に絵馬を奉納した山田長政」の項を所収。 |
タイ民芸紀行 |
野間吉夫
東出版
昭和53年(1978年) |
著者は民芸研究家。「アユタヤ紀行」の章に、山田長政の記述がある。 |
静岡市史 近世 |
静岡市役所
昭和54年(1979) |
「山田長政」の項を所収。
第六章 山田長政と由比正雪
第一節 山田長政考
第二節 古来の長政についての記録
第三節 主として記録の上からみた山田長政
執筆者は安本博。原稿の半分以上が三木栄の論考からの引用である。また「創作」と疑わしい逸話を無批判に紹介している点は、本書が「静岡市の正史」という性格を持つものであるが故に大いに気になる。しかしながら『硯屋日記』中の山田長政記事を翻字して全文掲載しているのは貴重である。
『硯屋日記』は享保19年(1734)から元文4年(1739)にかけて、宮ヶ崎の硯屋弥惣次が書きとめておいた日記である。この中に山田長政に関する記事が残されていた。当時浅間神社界隈では長政がどのように理解されていたかを知る上でたいへん参考になる文章である。 |
王国への道−山田長政− |
遠藤周作
平凡社
昭和56年(1981) |
さすがは文学者遠藤周作である。フィクションではあっても、山田長政という人間の内面をえがくことにかけては、他の作家の追随を許さない。
長政とペトロ岐部、二人の主人公をたてたことも異色。
ペトロ岐部は実在の人物。キリシタン禁教が本格的になった頃に密出国し、単身ローマバチカンまで赴き教父となった。日本に戻る途中、山田長政が長をしていたアユタヤ日本人町に一年ほど滞在した。帰国してまもなく幕府に捕縛され、壮絶な拷問死をとげる。
山田長政を知るために最初に読みたい推薦本。
初出は平凡社の雑誌「太陽」。昭和54年7月号〜昭和56年2月号に連載された。単行本には守谷多々志の美しい挿絵が収録されなかったことが惜しまれる。 |
>悪夢巡礼 |
藤本義一
集英社
昭和56年(1981) |
作家藤本義一は「山田長政非在説」を唱えていたが、その後見解を改め、丹念に山田長政の事蹟を取材した。
本書の主人公は山田長政ではないが、長政関連小説としてたいへん面白い。
異色作である。 |
王国への道−山田長政− |
遠藤周作
新潮文庫
昭和59年(1984) |
平凡社から刊行された同作品の文庫版。 |
新版増補 日・タイ四百年史 |
西野順治郎
時事通信社
昭和59年(1984) |
著者は日・タイ親善に力を尽くした経済人。
「第二章 アユタヤ時代の日タイ関係」に長政の記述がある。
初版は昭和48年(1973)に刊行された。 |
史実山田長政 |
江崎惇
新人物往来社
昭和61年(1986) |
江崎惇は清水次郎長の研究で知られた静岡の作家。
タイトルに「史実」と冠し、まえがきでいきなり《これは小説ではない》と断言しているものの、長政の事蹟に関しては想像の部分が多く、間違いなく本書は小説である。
第二部の「山田長政の史料」は長政研究としてよくまとまってはいるが、こちらも困ったことに誤りが多い。
些末な情報には他の文献に見られない面白いネタがある。 |
山田長政の秘宝−シャム日本人町の超人 |
和久峻三
角川書店
昭和61年(1986) |
山田長政の隠し財宝をめぐって起こる殺人事件。長政の事蹟と直接の関係はないが、戦時中につくられた紙芝居『リゴール総督・山田長政』の全文を紹介し、一枚ずつ個別に解説しているのは貴重。ただしこの紙芝居が実在するものかどうか、確認はできていない。
物語の舞台が静岡なので、主人公たちが静岡−清水の名所を立ち回る場面などは、ご当地の読者ならばそれなりに楽しめる。
1987年に文庫化され、その後1994年に『東京−バンコク生首殺人事件』と改題して広済堂文庫より刊行された。 |
NHK歴史ドキュメント 7 |
日本放送出版協会
日本放送出版協会
昭和62年(1987年) |
「シャムの英雄・山田長政の謎」を所収。
NHKドキュメント番組の書籍化。他の出版物には見られない図版が多数収録されている。
ナコン・シータマラートへの現地取材など興味深い記述があるが、山田長政は存在しなかったと長政非在説を唱える矢野暢を前面に押し出しているため、結果的には本書のもととなった番組が山田長政の評判を落としたのだと言える。 |
山田長政 知られざる実像 |
小和田哲男
講談社
昭和62年(1987) |
静岡大学教授の小和田哲男は、長政を従来の武人的イメージにとらわれずに「経済人」として再評価するよう提言している。
また17世紀の初頭、徳川と豊臣の対立が収まらぬ頃、東南アジアから輸入した良質な火薬原料によって徳川軍の火力が飛躍的に向上したという指摘は、山田長政と徳川の見えざる関係を示唆してたいへん興味深い。
構成も読みやすく、長政の評伝として最もバランスのとれた好著 |
山田長政の密書 |
中津文彦
講談社
平成1年(1989) |
山田長政を主人公とした時代推理小説。
著者は長政毒殺の謎について、斬新な解釈を展開している。説得力のある異色作品。
しかし、《静岡県富士宮市の浅間神社には、長政が奉納したとされる絵馬が現在も残っている》と明らかな誤りがある。平成4年(1992)には講談社文庫で刊行されているが、上記の一節は改訂されていない。
《この物語はフィクションであり、登場する人物、団体等はすべて架空のものです》と巻末に明記しているにしても、実在した人物や歴史上の事実を物語に織り込む以上、絵馬が「富士宮市の浅間神社」に奉納したと記述するのは問題である。
※絵馬は「静岡市の浅間神社」に奉納された。 |
山田長政の密書 |
中津文彦
講談社
平成4年(1992) |
平成1年に刊行された同作品の講談社文庫版。
アジアを舞台にした推理小説を多く手がけた伴野朗が解説を書いている。 |
風雲児 |
白石一郎
読売新聞社
平成6年(1994) |
著者は水軍が活躍する物語を得意とした時代小説作家。
本書も長政が率いる日本人義勇軍の水上戦が見どころである。
また、長政が日本からタイに渡る過程もよく書き込まれていて、台湾でタイ語/日本語の通訳が出来る人物を仲間に加えるなど、他の作品にはない工夫が随所にある。
娯楽色あふれる痛快な冒険小説。 |
アジア読本 タイ |
小野澤正喜編
河出書房新社
平成6年(1994) |
岩城雄次郎のコラム「南タイの山田長政観」を所収。
ナコン・シータマラートに伝わる「山田長政を恐れる子守唄」を紹介している。 |
暹羅国武士盛衰記 真説ヤマダナガマサ |
岩城雄次郎
光和堂
平成8年(1996) |
タイの邦字紙に連載された小説。
タイに長く在住した著者が、長政が歿したナコン・シータマラートでの現地取材を活かした意欲作。 |
竹内宏の静岡産業風土記 |
竹内宏
静岡新聞社
平成8年(1996) |
「国際人・山田長政の登場」を所収。
短い文章だが、長政が居住した17世紀初頭の駿府の経済・文化状況が、判りやすく簡潔に解説されている。 |
戦後教科書から消された人々 2 |
濤川栄太
ごま書房
平成9年(1997) |
GHQが指導した敗戦後の歴史教育により、教科書から消えていった人物の一人として山田長政があげられている。 |
静岡の文化55号 |
静岡県文化財団
平成10年(1999) |
『タイの山田長政探訪』を掲載。
静岡の作家、竹内凱子がアユタヤを訪問した紀行文。1987年に京都大学の矢野暢教授が投じた「山田長政不在論」にも言及している。
「長政まつり」の写真あり。 |
風雲児 |
白石一郎/文春文庫/平成10年(1998) |
平成6年に讀賣新聞社から刊行された同作品の文庫版。 |
史伝山田長政 |
小和田哲男
学研M文庫
平成13年(2001) |
講談社より昭和62年に刊行された『山田長政 知られざる実像』の文庫化。長政評伝の白眉であり、出版社在庫切れなのが残念である。 |
宝鑑 静岡浅間神社の文化財・社宝目録 |
静岡浅間神社
平成13年(2001) |
浅間神社には一般に知られているだけでも八点の山田長政関連文物が所蔵されている。
本目録には「戦艦図絵馬」「十七世紀における日本山田長政義勇軍行列の図」「山田長政油彩肖像画」の画像が収録されている。 |
慶喜邸を訪れた人々―「徳川慶喜家扶日記」より |
前田匡一郎編
羽衣出版
平成15年(2003) |
徳川慶喜が静岡で暮らした30年間、家扶たちは慶喜の毎日を几帳面に記録した。
本書には、明治25年の8月に、慶喜の息子たちが駿府城内で開催された「山田長政記念大相撲」を見物に行ったことが記されている。
この記述によって、明治25年7月20日の初日から「晴天7日間」にわたって興行される「山田長政記念大相撲」が、8月になってもまだ終わらなかったことが判る。大変貴重な情報である。 |
山田長政の考察 |
佐藤郁太
私家本
平成19年? |
著者は山田長政史跡保存会会員の郷土史家。
この論考は、山田長政の父親は愛知県海部郡佐織町の山田清兵衛だとする長政尾張出生説を説いている。長政が海部郡出身だという説は、実は昔からあり、海部郡の教育委員会は、山田長政が海部郡に生まれたと記述した読本を明治時代に刊行している。
徳川家康の摩利支天信仰や、家康側室のお万の方が奈古屋大明神(大歳御祖神社)に武運長久り懸仏を行った事蹟に注目し、これが長政に影響を与えたと考察するなど、示唆されるところが多い。 |
戦国風雲児 山田長政 神になった男 |
作:伊藤公芳
画:甲良幹二郎
リイド社(SPコミックス)
平成20年(2008) |
山田長政を主人公とした時代劇画。
1984年から1985年にかけて中日新聞に連載された。
本巻では長政の少年時代が丹念に描かれている。
藁科富厚里での生活や、キリシタンとの関わりなど、他の山田長政伝には見られない逸話が豊富で、非常に興味深い物語になっている。
作者の伊藤公芳は、昭和15年、三重県に生まれる。新聞記者、テレビディレクターを経て出版社を経営。定年後は静岡の山間部に居を移し、草舎人の名でインターネット上に作品を発表している。現在は静岡県西伊豆町に在住。 |
|
|
|