山田長政関連文物
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■浅間神社所蔵
山田長政奉納戦艦図絵馬 三図 1626年(寛永三年)に山田長政が静岡浅間神社に奉納した戦艦図絵額は、1788年(天明八年)の火災で焼失した。現在はその模写三種が伝えられている。
※三図のうち一図は公開されていない@戦艦図絵馬(山田長政公奉納絵馬模写絵)
101・0×134・0駿府在番の榊原長俊が宝暦四年に原物から写した第一模写。何人かの手を経て、1922年(大正11年)に静岡県周智郡森町在住の中澤親之が奉納した。 A戦艦図絵馬
102・0×149・0
紙本着色軸仕立
箱書 浅間宝庫 唐船絵馬寫
浅間大祝高孝寄進原図が焼失した後、榊原長俊の第一模写をもとにして、浅間大祝高孝が1789年(寛政元年)に模写して奉納したもの。
※「大祝(おおほうり)」
B戦艦図絵馬写
102・0×144・0伝来不詳 日本人義勇軍行進図
十七世紀における日本山田長政義勇軍行列の図
64・5×142・01939年(昭和14年)9月27日、三木栄が静岡浅間神社に奉納。日本義勇軍が金地で描かれた「日の丸」を掲げて行進する姿が描かれている。
《これは、もともと、アユタヤのワット・ヨム寺院の壁に描かれていたものといわれている。このワット・ヨム寺院というのは十七世紀、ブラナライ王の時代に建てられていたもので、のち廃墟となっていたのを十九世紀になって、サンバッサー親王が模写したという。それがタイ文書館に折手本として保存されていたのである。》『史伝山田長政』より山田長政肖像画
紙本著色 軸装
31・0×16・0一八七八年(明治十一年)八月、静岡市札ノ辻町の太田与兵衛が奉納。太田与兵衛は長政の渡海を助力したといわれる太田治右衛門の後裔。 山田長政肖像画
油絵 額装
89・0×67・5一八八八年(明治二十一年)十一月、天野鎌太郎が奉納。
《なお、山田家(※太田の誤植)から奉納された長政の肖像画を、関口隆正氏の紹介で、画家村田丹陵子が模写し、関口氏の『山田長政伝』の口絵を飾った。また明治二十一年十一月、当時静岡市馬場町に居住していた、静岡市範学校の教師天野鎌太郎が、油絵風に模写した。》『山田長政資料集成』より
※肖像画の原図は『居敬堂随筆』にあり、その図版が『山田長政資料集成』に収録されている。
※《居敬堂というのは、京都生まれで江戸に居住した儒学者の小畑行簡》《『居敬堂随筆』に載っている長政の肖像画は、屋代弘賢の持っていたもの》『史実山田長政』より山田長政座像 伝来不詳 ■静岡市文化財資料館所蔵
山田長政肖像画
油絵 額装一九七三年(昭和四十八年)、滝静雄より山田長政顕彰会に寄贈されたもの。描いたのは馬堀喜孝(善孝)。一九〇七年(明治四〇年)生まれの馬堀は、二十三歳にして皇室への御出入りを許された肖像画の大家。旧紙幣の聖徳太子、伊藤博文、岩倉具視を描いたことでも知られる。 ■松樹院(井宮町)
薬師如来石像 一七五八年(宝暦八年)の駿府籠鼻浄功院(廃寺となり、現在は松樹院に合併)『薬師如来略縁起』には、山田長政が奉納したと伝えられている。 ■浅間通り(馬場町)
山田長政胸像 二〇〇〇年(平成十二年)、山田長政屋敷跡前に完成。原形作製者は富山県高岡市在住の彫刻家、熊谷友児(くまがや・ゆうじ)。 山田仁左衛門記念大相撲 明治二十五年、「山田仁左衛門記念大相撲」が駿府城本丸跡地で開催された。勧進元は清水次郎長こと山本長五郎である。この大相撲は山田長政の記念碑もしくは銅像を建立するための資金づくりが目的だった。清水次郎長がなにゆえ山田長政の顕彰を思い立ったのかは定かではないが、次郎長は興行の制作に奔走する。この頃、駿府城跡地は民間に払い下げられていて、地主は城内を小作人の用地として貸し出していた。次郎長は土地借用についても自ら地権者と交渉にあたった。東京へ出向いて、高砂、雷の両大相撲取締とかけあい、ついに東京大相撲の招聘をとりまとめたのである。
山田仁左衛門記念大相撲は、これまでに刊行されている文献資料では七月二十五日に催されたことになっているが、当時配布された番付や入場優待券には《明治二十五年七月二十日より晴天七日》と記載されている。単発のチャリティー事業ではなく、七日間に渡って実施された本格的な大相撲興行だったことがこれで判る。また、雨天の場合は中止となって、その日の取り組みが順延されたのだと推察される。
前田匡一郎の『慶喜邸を訪れた人々』(羽衣出版)に収録された「徳川慶喜家扶日記」には、明治二十五年八月一日の日付で《厚、久、山田仁左衛門記念相撲見物。供、梅沢覚、成田藤次郎》の記述がある。厚は徳川慶喜の四男、久は七男。慶喜の子息たちは八月四日と六日にも城内の相撲見物に出かけている。七月二十日に始まった七日間の興行が八月六日の時点でまだ終わっていなかったということは、二日に一回は雨にたたられたということだろうか。これでは大相撲一行の滞在費だけでも相当な額にのぼっていたと思われる。結局この大相撲興行では充分な収益を得ることがかなわず、山田長政記念碑の建立は成らなかった。山田長政記念大相撲番付表 一八九二年(明治二十五年)に清水次郎長が山田長政顕彰碑建立のため、駿府城内で開催した勧進大相撲興行の番付表。勧進元は「山本長五郎」と明記されている。 山田長政記念大相撲優待券 興行が七月二〇日より晴天七日間であったこと、「長政記念事務所」が札ノ辻にあったことが記載されている。 レコード 山田長政
あがた森魚・唄山田長政が文部省唱歌として戦前唄われたことは知られているが、これはあがた森魚が作詞作曲して自ら唄った珍品。 プラモデル 山田長政の軍艦 山田長政が浅間神社に奉納した戦艦図絵馬をもとにして製作されたプラモデル。何社かがこのようなプラモデルを出しているようだが、その詳細は明かではない。 山田長政 王者の剣
(ビデオ)
昭和34年(1959)公開 大映映画大映がタイ国アスピン・ピクチャーと提携し、初の日・タイ親善の合作映画として製作する大映スコープ総天然色『山田長政・王者の剣』は、長駆5000キロのバンコックに現地ロケを敢行して描く、空前の豪華スペクタクル巨篇です。
内容は、徳川の初期、青雲の志やみ難く、若くしてタイ国に渡り、シャム王朝に仕えて数々の武勲をたて、日本人としての真価を発揮し、のち六昆国王に任ぜられた一世の風雲児・山田長政の誠実にして勇敢な波乱の生涯を通して、南国の舞姫に誓う灼熱の恋、異国の武将と結ぶ固き友情など、誇り高きロマンチック・ヒロイズムを描くことによって、現代日本の若人の胸に“大志を抱け”の精神を訴えるとともに、日・タイ両国民の友愛を強調しようというものです。
これは、合作映画として大映の永田雅一社長とアスピン・ピクチャーのバヌー・ユガラ社長がみずから共同製作にあたり、原作者村松梢風が、この映画のため、実地にタイ国へ渡って資料調査を行い、小説として“小説新潮”に発表したものをベテラン小国英雄が完全脚色、この所好調の波に乗る加戸敏監督が初の海外ロケに取組む超弩級作で、企画は辻久一、撮影牧田行正、録音大角正夫、音楽鈴木静一、美術上里義三、照明伊藤貞一のほか、タイ国側から美術考証としてシャレム・バンザニイラ、衣装考証としてブリム・ブンナーグがそれぞれ担当、風俗、時代考証にも万全を期するという背水のスタッフ陣を配しています。
なお話題のキャストは、五年振りの念願が実現したという長谷川一夫の山田長政のほか、大映初出演の中田康子、シャムの近衛仕官になる市川雷蔵に、若尾文子、根上淳らのドル箱スター、浦路洋子、金田一敦子らのホープに加え、ベテラン千田是也、小沢栄太郎、永田靖、田崎潤、香川良介、荒木忍、舟木洋一、伊沢一郎、倉田マユミ、浦辺粂子らの絢爛豪華な顔ぶれを網羅した堂々の配役陣容を誇っています。
(公開当時のパンフレットより)紙芝居山田長政
小糸正世作 西正世志画
日本教育紙芝居協会
昭和18年(1943)戦時の時局を支援したと思われるこうした紙芝居が、本品のように良好な状態で残されているのはたいへん珍しい。戦時資料としても貴重なものである。 静岡新報社発行 記念絵葉書 静岡新報創刊35周年を記念して発行された絵葉書。静岡新報の発刊は明治28年(1895)であるから、昭和10年(1830)頃に発行されたと思われる。静岡新報社は昭和2年にタイから静岡市に釈迦尊像が寄贈された折、その受け入れ窓口となった。
※仏像は静岡新報社に贈られたという説もある。山田家過去帳 絵葉書
山田長政公暹羅國ヨリ土産物ノ陶器皿ノ圖絵葉書の左側の図像は、山田長政の生家山田家の過去帳。静岡市駿河区大谷の西敬寺にある。絵皿は絵葉書のキャプションによれば、山田長政がタイから送った物品だということではあるが、真偽は判らない。戦前の静岡には、このように山田長政が由来とされる物産がたくさんあったようだ。 ■その他の情報
山田長政肖像画 絵葉書図版の山田長政肖像画は、太田家が静岡浅間神社に奉納した長政の肖像画を、画家村田丹陵が模写し、明治25年(1892)に刊行された『山田長政伝』(関口隆正著)の口絵を飾ったもの。
※村田丹陵は明治五年生まれ。吉沢素山に画の手ほどきを受け、のち川辺御楯に入門し土佐派を学んだ。御用画なども描き、主に歴史画に秀作を残した。
リスト作成 浅間通りあべの古書店