戦前、静岡市の大浜にコンクリート製の山田長政像がたっていた。甲冑姿の山田長政が巨大な象にまたがり海の彼方を睥睨する勇壮なもので、静岡の名物だった。
『山田長政資料集成』所収の「山田長政年表」には次のような記述がある。
《一九三二年(昭和七年)、二月、中沢糖村、静岡ニ於テ、象ニ跨レル長政ノコンクリート像ヲ製作ス(現在静岡市大浜公園ニ在リ)》
また長年に渡り山田長政の事蹟を研究した村本山雨楼(村本喜代作)は、自著『山田長政の史的考察』(同じく『山田長政資料集成』に所収)の中で、《其後中沢糖村という人が昭和七年に山田長政公頌讃会というものを作って賛成者を募り、コンクリートの象に跨った長政像を製作して静岡大浜公園附近に建立したが、之は大東亜戦後に取りこわしたということである。》と書いている。
南進政策の象徴(として利用された)山田長政の像は、アメリカの不興を買うとの理由で取り壊されたと「資料集成」は伝えるが、別の情報では像の立つ土地が売却されたため、邪魔になった山田長政像は土中に埋められてしまったのだと言う。コンクリート像を引き倒して埋めるところを実際に見たと証言する古老もあり、いまだに大浜の某所の地下に山田長政像が眠っているのは確かなようだ。
戦後五十年以上に渡ってこのコンクリート像の詳細は謎に包まれていた。唯一、資料として確認されていたのは、静岡市制100周年の記念写真集を製作する折に、市民から寄せられた古写真であった。しかしこの写真では像の一部分しか判らなかった。
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幻だった大浜公園の山田長政像の全貌が姿を現すのは二十一世紀になってからである。近代都市史研究者の田中傑氏によって二枚の貴重な古絵葉書が発見され、ようやくその全体像が明らかになった。
また田中氏は、静岡の伊河麻神社裏の亀山という土建業者が像を造ったという聞き取りも行っている。ただし、像を据える工事をしただけなのか、それとも像を作ったセメントをこねたのか、は不明。筆者も「伊河麻神社の裏でコンクリート像を造っていた」という証言を、別に聞いている。
古い資料を見聞する限りでは、像の製作者は下村声峰だと思われる。白鳥金次郎の著作『静岡名人畸人傳』には、コンクリート製の仏像製作を多く手がけた下村声峰の作品リストに《静岡市大浜公園 山田長政公》の記載がある。 |
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戦前大浜公園に立っていたコンクリート製の「象にまたがる山田長政」像は、もともとは静岡浅間神社の百段階段を登りつめた場所に設置されていたという説がある。地元の古老もこれを証言している。残念ながら静岡浅間神社の長政像の存在を証明するような写真は見つかっていない。
だがここに謎の山田長政像が実在したことを明らかにするかもしれない一枚の写真がある。撮影場所は長谷通りの浅間神社楼門前。井宮消防団と軍服を着た男たちが太いロープを引いている。その後ろに巨大な象が写っている。象は白布でおおわれているように見える。画面の右側には、「山田長政公像」と書かれた幟を持つ人物が立っている。その横に白幕でおおわれたような物体があるが、おそらくこれが長政像であろう。形状が大浜公園にあった山田長政像によく似ている。
仮に写真の長政像と大浜の長政像が同じものならば、大浜の長政像は浅間神社から移されたのだと言えそうである。しかし写真の山田長政像の、特に象の大きさとこれがコンクリート製であったことを考えると、このようなものを百段階段の上まであげ、またあらためて下ろしてくることが可能であったのか否か、大いに疑問が残る。 |
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