第23回 日タイ友好 長政まつり
日時: 2008年10月12日(日) 11:00−17:00
場所: 静岡浅間通り商店街 (静岡市葵区宮ヶ崎町・馬場町)
※600メートルの商店街全域が歩行者天国となります。
《交通手段》 開催場所「浅間通り」の地図はこちら
バス:JR静岡駅より「中町」(約10分・100円)下車
徒歩:JR静岡駅より約15分(1km)
《主催》
静岡浅間通り商店街振興組合 長政まつり実行委員会
《後援》
タイ王国大使館 タイ王国大阪総領事館 タイ国政府観光庁
静岡市・静岡商工会議所・静岡浅間神社・NHK静岡放送局・産経新聞
《主な催事内容》
●戦艦図絵馬奉納行列
●山田長政資料展示館
●タイ伝統舞踊(タイ国大阪総領事館提供イベント)
●ムエタイ・エキジビションマッチ(タイ国大阪総領事館提供イベント)
●奉納擬闘演武(ノッポーン・ワルティン監督提供イベント)
●トゥクトゥク展示
●開会及び閉会セレモニー
●秋のわくわく祭り協賛福袋販売
●長政まつり大抽選会
●駿府歴史スタンプラリー
●タイ料理屋台、タイマッサージ・ブース、タイ雑貨店の出店
今年の「長政まつり」には、現在タイで撮影が進行中の映画『ヤマダ −アユタヤの侍』のスタッフが大挙して参加します。
ノッポーン・ワルティン監督をはじめ、山田長政役の主演男優大関正義さん(タイ在住の日本人俳優)、主演女優のノーングソムさん、スタントマン俳優ほか、山田長政のドキュメンタリー番組制作のために同行するチャンネル3のTVクルーなど、総勢25名の一行です。
大関正義さんは「長政まつり」でも山田長政公を演じ、長政が静岡浅間神社に戦艦図絵馬を奉納した故事にちなんだ「戦艦図絵馬奉納行列」では山田長政として巨大な象にまたがる雄姿をみせます。
またスタントマン俳優は、ムエタイをベースにした「演武」を静岡浅間神社に奉納します。演武は「長政まつり」の会場でも披露されます。
タイ王国大阪総領事館のサポートで、タイより「舞踊団」を招聘予定です。昨年はバンコクのウィタヤーライ・ナータシンの先生・生徒さんにタイ古典舞踊と音楽演奏を上演していただきました。
同じくタイ王国大阪総領事館のご協力を得まして、ムエタイのエキジビションマッチを行います。出演は横浜の「はまっこムエタイ・ジム」さんです。
《目次》
プログラム 出店者 長政まつりとは 山田長政と浅間通り リンク集
◎プログラム(9月10日現在の予定。今後変更が生じる場合もあります。)
13:30 中町赤鳥居下出発
山田長政戦艦図絵馬奉納行列
14:00 静岡浅間神社到着
14:00 奉告祭 大歳御祖神社拝殿
14:30 奉納演武 『ヤマダ −アユタヤの侍』出演者による 大歳御祖神社拝殿前
11:00 開会式
3番街・中央ステージ
11:30 木遣り
12:00 『ヤマダ −アユタヤの侍』スペシャル・トーク・ショー
12:30 タイ古典舞踊
14:00 スンプレンジャー・ショー
15:30 タイ古典舞踊
16:30 長政まつり大旅行抽選会
16:45 閉会式
12:00 はまっこムエタイ・ジム
5番街・ムエタイステージ
12:50 『ヤマダ −アユタヤの侍』スタントマン演武
15:00 はまっこムエタイ・ジム
15:50 『ヤマダ −アユタヤの侍』スタントマン演武
12:30 秋のわくわく祭り協賛福袋販売
1番街・抽選会場
14:00 長政まつり大抽選会
浅間通りは、静岡浅間神社側から中町に向かって、1番街→5番街の5つのブロックに分かれています。各番街の押印所に置かれた駿府ゆかりの人物等のスタンプ5つを全部集めると、先着1000名に「長政まつり」の日にだけ焼かれる長政煎餅をプレゼント!
駿府歴史スタンプラリー
参加方法など詳細は、当日本部等で配布するプログラムをご覧ください。
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◎出店者
タイ料理
○アローイ・アロイ
○サンピーノーン
○タイ・オーキッド
○ルン・ルアン
タイマッサージ
○アジアンヒーリング和癒 〜Wai〜
○ア・リ・ビ・ラ
タイ雑貨
(このほか、地元静岡の特産品・農産物の販売出店があります。)
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◎日タイ友好 長政まつり とは
いまから二十年ほど前の1986年、静岡の若者有志によるささやかな「まつり」が浅間通りで行われました。徳川家康が駿府城に在城していた頃にタイへ渡り、波乱の生涯を送った山田仁左衛門長政がこの浅間通りの出身であることにちなみ、イベントは「長政まつり」と命名されました。これが「第1回 長政まつり」です。
その後、浅間通り商店街に引き継がれた「長政まつり」は、山田長政を記念顕彰するのみならず、日本とタイの交流の架け橋となった長政にならい、日タイの親睦を推進する「日・タイ友好」事業として、タイフードやタイ舞踊など、タイ文化の魅力を紹介してきました。
2000年には商店街の新アーケードの完成と共に、念願であった山田長政公像の建立が実現しました。これを契機に山田長政を学問的に研究する会が地元に発足し、長政まつりは一過性のイベントから、地域独自の歴史文化や伝統を再発見する「学びの場」ともなりました。
一昨年からは在京タイ王国大使館・大阪タイ王国総領事館の大々的な支援を受けて、「日・タイ友好 長政まつり」は地方都市の一商店街としては類例のない国際的なイベントへとますます発展しているところです。
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◎山田長政と浅間通り
【その出生とタイへの渡航】
山田仁左衛門長政は、天正十八年(1590)頃、駿府の馬場町(いまの浅間通り)に生まれた。父は紺屋津国屋の二代目九左衛門、母は藁科富厚里の出身であったと伝えられている。
慶長十七年(1612)頃、長政は駿府の商人滝佐右衛門・太田治右衛門が船主の貿易船に便乗してシャム(=タイ)に渡った。
長政が渡航した頃のシャムは、アユタヤに国都を置くアユタヤ王朝の時代だった。アユタヤは東南アジア交易網の重要な拠点として物産を集積・供給するだけではなく、アジアとヨーロッパを結ぶ海路貿易の中継地だった。長政はここで日本人町の頭領をつとめた。また、ソングタム王の信認をうけて王室付きの日本人護衛兵の長となって活躍し、数々の武勲をうちたてた。【タイでの活躍】
山田長政は戦前の日本においては武勇伝ばかりが強調されていたが、長政の本領は武人の功績よりも、国際的な貿易商としての手腕にある。東西各国の仲買人たちが入り乱れてしのぎをけずる国際都市アユタヤで、長政は熾烈な経済戦争に勝ち続ける。日タイの貿易はもちろん、マラッカ(マレーシア)やバタビア(インドネシア)などにも商船を送り盛んに交易を行った。
長政はアユタヤを拠点とする貿易を一手に引き受け、その勢いは、世界最大の海運交易企業の東インド会社を相手に一歩も譲らず、同社のアユタヤ支社を閉鎖させてしまうほどだった。
寛永三年(1626)、長政は「オークプラ」という正規の官位をアユタヤ王室から与えられた。寛永五年(1628)には、ついに最上位の官位であるオークヤー・セーナピモックにまで昇進し、以後長政はタイの歴史ではこの官位名で記憶されている。
長政は祈願成就を記念して、故郷駿府の浅間神社に『戦艦図絵馬』を奉納した。絵馬の原図は天明八年(1788)の火災で消失したが、駿府勤番榊原長俊が模写した図が残されている。【六昆王に、そして悲運の最期】
寛永六年(1929)、タイの使節団が三代将軍徳川家光に謁見し、日本とタイの国交が樹立する。その仲介役をつとめたのが山田長政だった。長政の尽力で日タイ両国の交流はますます盛んになるが、この頃から長政の人生は不穏な方向へと大きく転回する。この年ソングタム王の崩御によって王室内に王位継承をめぐる抗争が起き、長政も否応なしにまきこまれるのである。
様々な政治的かけひきが王室内で続く中、長政は、当時内乱状態にあったリゴール(六昆、現在のタイ南部、ナコン・シータマラート)の平定を命じられる。日本人義勇軍二千人を率いた長政は見事に争乱を鎮め、六昆王(リゴール国王)に任ぜられた。小国といえども長政は一国の「王」となったのである。
しかしそれも束の間、長政は戦闘で足に受けた傷が悪化して、波瀾万丈の生涯を閉じた。何者かが傷に毒を塗ったのだとも言われている。寛永七年(1630)、長政は四十歳だった。
故国日本にもアユタヤにも戻ることなく、山田長政は異国の土となった。270年後、ナコンには長政を追悼する記念碑がたち、「ナガマサ・ストリート」と呼ばれる通りがいまもある。
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◎リンク
タイ関連リンク集。
出店者。
その他。
在京タイ王国大使館
タイ王国大阪総領事館
タイ国政府観光庁
ワイワイタイランド
● 在日本タイ王国大使館の日タイ修交120周年記念ホームページ
● 外務省の日タイ修交120周年記念ホームページ
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©浅間通り商店街振興組合+長政まつり実行委員会 2008